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- 2019.01.05 Saturday
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Frank Oceanにプレイされたことでも話題の
今年最も予想外で謎多き新人、Superorganismの新曲はこれまた超キャッチ―。
リピートせずにはいられない!
2017年最も予想外、そして謎が多いニューカマー、それがSuperorganismである。超個体を意味するバンド名からしてパンチがあるが、17歳の日本人、Oronoを中心とする8人組の集団は1月末に公開したデビュー・シングル「Something For Your M.I.N.D」でインターネットをざわつかせた。全くの無名のバンドのデビュー曲が、Apple Music内のラジオ局、Beats1でFrank Oceanにプレイされたのだ。その中毒性溢れるミステリアスなポップ・ソングは多くのリスナーを夢中にさせ、彼女たちの奇妙なバンド名は一瞬で知れ渡ることとなった。そんなSuperorganismが新たな楽曲、「It’s All Good」を公開した。デビュー曲同様にハイパー・ポップで、”喜び”、”幸せ”、”楽しさ”といったフィーリングでいっぱい。そして何より何度もリプレイしたくなる一曲だ。
*「Something For Your M.I.N.D」は楽曲中のサンプルの著作権の問題で揉めたためかストリーミング・サービスからは消えている。こちらの非公式なYouTubeのポストでのみ聴くことが出来る。
今回もゆったりとしたビートに、骨太なベース・ライン、たくさんのボイス・サンプルが散りばめられ、それらが加工され、そして印象的なポーズがありと、試行錯誤の末の巧みな構成の楽曲だ。そして韓国語への言い換えも含んだ掛け合いによるサビも最高にキャッチ―でアンセミック。サイケデリックなポップ・ソングとしてはGrouploveや初期のMGMTを思い出させるが(本人たちはThe Flaming LipsやDEVOの影響を挙げている)、リズム感、サンプルの処理の仕方はヒップホップやR&Bも経由している。
やはり何より興味を惹くのはリリックからも読み取れるポジティブなムードだ。オロノへ「おはよう、目が覚めたね。外の天気は暗い。起きるかい?それともひょっとして何もしない?」と語りかけるところから始まり、その後も「私はまだ17歳。まだ夢の途中なの」を初め終始前向きなメッセージで溢れている。更にサビ後に挿入された自己啓発作家、Tony Robbinsのスピーチのサンプルがダメ押しする。
彼女たちについては兎に角謎が多いがどうやら8人のメンバーのうち日本人のOronoのみアメリカ北東部ニューイングランドのメイン州に在住し、他の7人はロンドンに住んでいるらしい。インターネットで常にやり取りをしているのだろうが、トラックメイカーやラッパーといった類では無いので、結成の経緯から楽曲制作のプロセスまでとても気になるところだ。全くアーティスト写真のようなものは出回っていないが、興味がある人はOronoのsoundcloudやInstagramのアカウントを覗いてみるといいだろう。彼女自身によるWeezerやPavemenetのカヴァー、彼女が描いた才能溢れる絵画を拝見できる。
またOronoが以前Twitterでシェアしていた自作のSpotifyのプレイリストからはSuperorganismの音楽性の影響源と言われても納得なアーティストが並んでいる。The BeatlesやBeach Boysといった60年代〜Carol KingやBilly Joelといった70年代の大御所から、より現代のTobias Jesso Jr.、Carly Rae Jepsenといったポップ、The Beta BandやtUnE-yArDsのようなサイケデリック、バンド・サウンドとして影響を与えているであろうCocteau Twins、Frankie Cosmos、The Moldy Peaches、更に軽快なビート感が彼女たちと重なるSolangeやNo Nameのようなヒップホップ・R&Bまでかなり幅広いセレクトだ。バンド中で彼女が果たしている役割はとても大きそうな感じがする。
うーん、It’s All Good!
グライムもトラップもここにはない、
だが確かにアメリカのランドマークたちとも交錯している
空を見上げてごらん、陽の光が見えるでしょう。とても高くに。
闇にはさよならして、愛へおかえり。
目を覚まして暗闇が少しずつ消えていくのを見てごらん
夜明けの間寝て、朝になるとキミがやってくる
いま僕は美しい一日に捕まえられて、太陽はキミがそうしてからずっと輝いている
昨日は去ったよ
このアルバムを最後まで聴き終え、このシークレット・トラック「Yesterday’s Gone」 ―亡くなった最愛の継父が密かに録っていたオリジナル曲。それを聴いたロイル・カーナーが母親のコーラスを被せさせて出来た。「もう一度二人を一緒にさせるため」のアイディアだという。― と出会ったとき、あなたの心は優しい愛でいっぱいにならずにはいられないだろう。
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2016年にブラック・ライブス・マターともメインストリームのトラップとも直接的には交わらない場所から産み落とされた2つのレコードの輝きは年が明けても忘れられていない。フランク・オーシャンの『Blonde』とチャンス・ザ・ラッパーの『Coloring Book』だ。前者は、自分自身と徹底的に向き合いながらパーソナルな葛藤を素直に曝け出し ―その葛藤は4年前のそれよりもずっと複雑になりながらも―、後者は家族や周囲のコミュニティと向き合い続けながら愛や喜びを見出し、それらをポップ・ミュージック史のあらゆる美しき断片と結びつけながらアウトプットした。この2つのレコードに大いに感動したあなたが次に手にすべきは、海を隔てた英国から届けられたこのロイル・カーナーの『Yesterday’s Gone』だ。名のあるコラボレーターは登場せず、あくまで彼の身近な仲間との共作。音楽的な参照点も良い意味で統一されているため、前述の2作ほどのダイナミックさはない。だが、ここにはオープンで、素直で、エモーショナルで、悲しみで溢れながらも同時に、愛や喜びで満ち溢れたポジティブさもまた同居している。
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確かにこの21歳の青年、ロイル・カーナーはラップ・ゲームには参加しちゃいないし、この作品自体はトレンドからはかなり距離を置いた場所から生まれた作品という認識で間違いないだろう。作品全体のベースは、トライブ・コールド・クエストやナズ、コモンといった90年代のアメリカのヒップホップ・アーティストのトラック直系の柔らかく、ジャジ―なビートで、時にブームバップの感覚も想起させる。
同じイギリス国内のシーンを見渡してみれば、ここ3年くらいは本格的にグライムが力を取り戻し、昨年はスケプタ『Konnichiwa』がマーキュリー賞を受賞し、カノーの『Made In The Manor』も合わせてノミネート(両者はブリット・アワードにもノミネートされている)、更にはストームジーやノヴェリストのような若手も台頭中だ。また、グライムでなくても、ヒップホップではクレプト&コーナン、セクション・ボーイズ、J・ハスなど個性豊かな才能が凌ぎを削りつつある。ただ、そのグライム・UKヒップホップも、カニエのフックアップ、ドレイクやA$AP Mobらとの共演を通し、いまや上手くUSのトラップのビートのスタイルを取り込みながら発展をしているし、UKヒップホップ旧来のジャマイカ、アフリカ由来のある独特のサウンドは、いまやダンスホール、リディムといった世界的なメインストリームの流行とあまり境界の見えづらいものになっており、段々と「UKっぽいもの」ではなくなってきている。こんな状況に思いを巡らしてみた時には、グライムの肌触りが無く、トラップとの交錯やアフロ・ビート的なモノへの畏敬もサウンドから汲み取れないこのレコードこそがいま最もわかりやすくUK的なラップかもしれない。
ただ、注目すべきはこの心地よいビートや、英国の曇り空を思わせる内省的な雰囲気だけでない。リリックはとことん正直に曝け出され、そのテーマやトーンは彼のアメリカで生まれたあの2つのレコードとも並べたくなるものであり、普遍的でもあるのだ。
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『Yesterday’s Gone』発表よりだいぶ前に世に放たれ、本作には収録されることのなかった2つの作品がわかりやすく彼を表していた。2014年に発表された「BFG」と「Tierney Terrace」の2曲だ。そして、このアルバムを読み進めていくと、本作はそうした初期の作品の延長上にあることがわかる。
彼にラップ・キャリアを邁進させたのは継父の死だ。2014年の「BFG」では「Everybody says I’m fuckin’ sad/ Of course I’m fuckin’ sad, I miss my fuckin’ dad」とあまりに生々しかった。だが、本作では、オープニングの「The Isle of Arran」からその継父だけでなく、幼いころに自分と疎遠になった父親、そしてこの曲のタイトルにも繋がる祖父とのアラン島での思い出についても、同じく幼いころに父が失踪している境遇まで同じ、アメリカのストーリーテラー、J. Coleのようなトーンを駆使しながら歌われる。
Uh, uh, look
Uh, no, I don't believe him
Uh, but know that I've been grieving
Know that I've been holding out, hoping to receive him
I've been holding out for G but he was nowhere to be seen when I was bleeding
恐れることなく悲しみを表明するカーナーに、バックからゴスペル・クワイアが「The Lord will make a way / And when I get in trouble」と光への入り口を授けようとする。カーナーのトーンと比べてみれば、このギャップを以てしてこのクワイアの歌声は皮肉にも感じられてしまうほどだ。他にもがんと闘った友人の母親を扱った「Mrs. C」、リレーションシップにおける「失うこと」を扱った「Damselfly」、どれもが赤裸々で、素直に綴られている。
遅くまで働きに出ていた母親に代わって面倒を見てくれたおじいちゃんとの記憶。理由もわからず幼少期に自分の下を離れていった父親。その父に代わって、自分のロールモデルとなろうとした最愛の継父の死。難読症やADHDを患った少年期。そう、彼のラップをモチベートするのは、二度と手にすることの出来ないものを失った悲しみや、闘わなければならなかった苦悩。メディテーションのようなスロウで優しいビートに乗せられ、低いトーンでそれらの言葉は吐き出される。それはさながら、か細い声で届けどころのない自らの愛を歌うフランク・オーシャンのようであり、フランクにそのような表現を可能にさせるプラットフォームを築いた『808s & Heartbreak』でのカニエ・ウエストよろしく、カーナーはパーソナルであり過ぎること、エモーショナルであり過ぎることを恐れはしない。
ここまで書くとこのアルバムが悲しみでいっぱいの作品のように読めてしまうかもしれない。だが、カーナーがそんな人生の中で身に付けたものは深い慈愛だ。失ったものに浸っているだけではいけない。他にもカーナーには支えねばならない大切な家族がいる。継父を失った直後に書かれたもう一つの楽曲、「Tierney Terrace」では若くして家族を背負わなければならなくなった時の葛藤が綴られていた。母・ジーン、弟のライアン、そしてブラック・プードルのリンゴをそのまま出演させたミュージック・ビデオは継父の穴を埋めようとした彼の努力の形としての愛が巧みに表現されていた。同様に彼はこの『Yesterday’s Gone』において、時にごく普通のユースとしてパーソナルでありながら、時に家族を支える優しく勇敢な青年にもなる。多くの楽曲にはその優しい愛が同居しているのだ。
「Florence」は持つことの出来なかった架空の妹に対しての愛の歌だ。「俺と同じようなそばかすがあって、でも背は低くて / ソファーで寝てる俺に彼女がタックルしてきたら、くすぐり返すんだ…」と始まり、「パンケーキを作ってあげる」(ミュージック・ビデオでもカーナーはパンケーキを作っている)約束もしている。彼女が「空には終わりがある」と言っても「二人なら何もリミットはない。空も果てしなく見える」とまで語って見せる、甘い優しさいっぱいの歌だ。ここでの妹への愛は、娘を愛する父のようだし、作中での母とのやり取り(「Swear」では二人の会話がそのまま収められた)も含めて実際凄くヒップホップ的な愛の形である。だが、繰り返すように、そのメディテーションのようなスロウで優しいビートだからこそ、彼の優しさはより特別なものに聴こえて仕方ない。
ロイル・カーナーの優しさは彼の音楽以外の課外活動―ADHDの子供たちへの支援としての料理教室―という取り組みにも現れていた。そして特筆すべきはNoiseyのインタビューでADHDであることについて、「ネガティブなことではない。これはむしろSuper Powerだ」と語っていたこと。彼の優しさには、ポジティブさが隠れており、それは作中でもプライベートでも一貫しているのだ。
『Yesterday’s Gone』で味わうことの出来るカーナーの優しさは、「Cocoa Butter Kisses」や「Sunday Candy」で顕著なように、過去の出来事や甘い思い出を、愛と喜びで表現するチャンス・ザ・ラッパーと、その「優しさ」の密度においては決して大きく変わりがないだろう。
本作は勿論単にパーソナルなだけでなく、個人が味わう体験でありながらもより普遍的なトピックも忘れない。学生ローンが懐かしい「Ain’t Nothing Changed」、自身のミュージック・ライフをネタにした「No CD」。喜びや悲しみの形は人それぞれあれど、結局のところ本作は誰でも馴染めるようなトピックも秀逸だ。
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この、マチズモは捨てられ決してボースティングすることもない、内省的な吐き捨てるようなフロウの傾向は、ルーツ・マヌーヴァ〜マイク・スキナー(The Streets)といったUKラップの伝統的な歴史の系譜にも重なるだろう。ルーツ・マヌーヴァのセカンド・アルバムがアークティック・モンキーズのファースト・アルバムのレコーディング時にメンバーに最も聴かれ、マイク・スキナーはそのアークティック・モンキーズのアレックス・ターナー同様、00年代のUKの最高のリリシストであったことを思い出せば(そして、こうした時代だったからこそ他にもゴリラズ、ジェイミー・Tなどの作品がこの国から生まれた)、このグライムやUKラップからは距離を持つ『Yesterday’s Gone』もまた、もしかしたら停滞するインディ・ロック青年たちに新たな突破口を与えるかもしれない。カーナーの声自体は強くなくとも、この作品が英国の音楽シーンに思わぬ大きな息吹を与えるだろう。だが、それは残酷なことに2016年のインディ・ロック・シーンを思い出してみても、年明けに発表されたSundara Karmaの『Youth Is Only Ever Fun In Retrospect』を聴いてみても、ちょっと期待しすぎに思えるかもしれない。
しかし、そんなことよりもこのパーソナルでありながらも普遍的な表現はもっと大きいスケールで共有される可能性を持っている。幅を広げれば、2016年はカニエ・ウエストやビヨンセも再び家族や自分の実生活と向き合った。『Yesterday’s Gone』は、素直で、パーソナルでありながら、悲しみとポジティブな愛が同居することによって、不穏な社会情勢に皆が不安を抱える2017年にどこかでリンクし合う。この作品はUKラップの表現の幅を一気に広め、グライムやトラップと寄り添う現行UKラップとはまた違った形でアメリカとも繋がった。これは昨年のポップ・ミュージックの2つの賜物、フランク・オーシャンやチャンス・ザ・ラッパーのアルバムとも交錯するユニバーサルな表現なのだ。